詳細は「硫黄島の戦い」を参照
1944年(昭和19年)5月27日、小笠原方面を守備するため父島要塞守備隊を基幹とする第109師団長となり、6月8日、硫黄島に着任。同年7月1日には大本営直轄部隊として編成された小笠原兵団長も兼任、海軍部隊も指揮下におき小笠原方面最高指揮官となる(硫黄島の戦い#小笠原兵団の編成と編制)。兵団司令部を設備の整った従来の父島から、アメリカ軍上陸後には最前線になると考えられた硫黄島に移し、同島守備の指揮を執る。もとより敵上陸軍の撃退(勝利)は不可能と考えていた栗林は、堅牢な地下陣地を構築しての長期間の持久戦・遊撃戦(ゲリラ)を計画・着手する。水際陣地構築および同島の千鳥飛行場確保に固執する海軍の強硬な反対を最後まで抑え、またアメリカ軍爆撃機の空襲にも耐え、上陸直前までに全長18kmにわたる坑道および地下陣地を建設した。その一方で隷下将兵に対しては陣地撤退・万歳突撃・自決を強く戒め、全将兵に配布した『敢闘ノ誓』や『膽兵ノ戦闘心得』に代表されるように、あくまで陣地防御やゲリラ戦をもっての長期抵抗を徹底させた(硫黄島の戦い#防衛戦術)。
翌1945年(昭和20年)2月16日、アメリカ軍艦艇・航空機は硫黄島に対し猛烈なる上陸準備砲爆撃を行い、同月19日9時、海兵隊第1波がLVTや上陸用舟艇をもって上陸を開始(硫黄島の戦い#アメリカ軍の上陸)。上陸準備砲爆撃時に栗林の命令を無視し、応戦砲撃を行った(日本)海軍の海岸砲により擂鉢山火砲陣地が露呈し全滅するなど誤算もあったものの、十分にアメリカ軍上陸部隊を内陸部に引き込んだ日本軍守備隊は10時過ぎに一斉攻撃を開始する。圧倒的な劣勢の中、アメリカ軍の予想を遥かに上回り粘り強く戦闘を続け多大な損害をアメリカに与えるものの、3月7日、栗林は最後の戦訓電報となる「膽参電第三五一号」を参謀本部(大本営陸軍部)と陸大時代の兵学教官であった恩師・蓮沼蕃陸軍大将(当時、帝国最後の侍従武官長)に対し打電。さらに組織的戦闘の最末期となった16日16時には、玉砕を意味する訣別電報を大本営に対し打電(硫黄島の戦い#組織的戦闘の終結・#訣別の電文)。翌17日、大本営よりその功績を認められ、特旨を以て陸軍大将任官。これは平時とは異なる戦時昇進ではあるが、53歳という年齢は日本陸海軍中最年少の大将である(そのため、栗林の大将任官は訣別電報を受けての進級ではあるものの、死後進級である特進では無い)。同日、最後の総攻撃を企図した栗林は残存部隊に対し以下の指令を送った。
17日当日および以降は総攻撃の機会が訪れなかったため、以来時機を窺っていた栗林は26日、約400名の将兵とともに、自ら指揮を取りアメリカ陸空軍野営地に対し夜襲を敢行し、戦死したと推定されている。[4][5]。満53歳没。
墓所は長野市松代の明徳寺。戦後1967年(昭和42年)、勲一等に叙せられ旭日大綬章を受勲。
死後、日米の戦史研究者などからは高い評価を得ていたが、硫黄島の戦いを除くと軍参謀長や留守師団長など軍人としては目立ったエピソードも少なく、局地戦で戦死した指揮官ということもあり、日本でも一般的な知名度は高くなかった。しかし2005年(平成17年)に硫黄島における栗林に焦点をあてた梯久美子の著書『散るぞ悲しき』が刊行され話題を呼んだのに続いて、翌2006年(平成18年)、クリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』(『Letters from Iwo Jima』)が公開され(栗林忠道役:渡辺謙)、関連書籍の刊行が相次ぐなどして一躍その名が知られることになった。
また、栗林は幼少の頃に一時的に養子に出ていたことがあり、養子に出ていた当時の記録は長らくの間不明であったが、近年、生家から少年時代の日記帳や成績表などが発見され、生後まもなく地元の士族・倉田家へ養子に出ていた時期など、これまで知られていなかった少年期の詳細が明らかになった。
アメリカ本国においては、硫黄島の戦いの報道がリアルタイムでなされていたこともあり、この戦闘の状況と栗林の知名度は高い。特に戦後、軍事史研究家やアメリカ軍々人に対し、「太平洋戦争における日本軍人で優秀な指揮官は誰であるか」と質問した際、「栗林将軍(General Kuribayashi)」と栗林の名前を挙げる人物が多いといわれている。戦闘自体は結果的に敗北に終わったものの、僅か22km²(東京都北区程度の面積)にすぎない硫黄島を、日本軍の3倍以上の兵力および絶対的な制海権・制空権を持ち、予備兵力・物量・補給線・装備全てにおいて圧倒的に優勢であったアメリカ軍の攻撃に対し、最後まで将兵の士気を低下させずに、アメリカ軍の予想を上回る1ヶ月半も防衛した采配は高く評価されている。
従来の島嶼防衛における水際作戦という基本方針を退け、長大かつ堅牢な地下陣地を構築したうえで、不用意な万歳突撃等による玉砕を厳禁し部下に徹底抗戦を指示した。その結果、アメリカ軍の死傷者総数が日本軍守備隊のそれを上回るという成果を上げ、またM4 シャーマン中戦車やLVT等を大量に撃破・擱坐させるといった物的損害を与えることにも成功し、のちにアメリカ軍幹部をして「勝者なき戦い」と評価せしめた。
栗林忠道 - Wikipedia (via liquidstyle)